小池真理子

「何か?」雛子は小首を傾げ、鳥飼に聞いた。  警戒するような口ぶりではなかった。彼女は好意的で友好的な感じがした。安心できる人物に道を訊ねられた時、人が見せるような屈託のない笑みを浮かべて、雛子は鳥飼の前に立った。 「申し訳ありません。散歩をしていてつい、この木にみとれてしまいまして」  ああ、と雛子は鳥飼の視線を辿りながら言った。「マルメロです。今年もこんなにいっぱい実が成って嬉しくって」  想像していた通りの声だった。低くて、落ち着いていて、時として人を眠たくさせるような……。 「珍しいですね。鎌倉でマルメロとは」 「ええ。知識がなかったものだから、育てるのが難しくて、大変だったんです。香りが強いものですから虫がつきやすくって。移植してから最初の五、六年は実も成らなくて、もしかすると気候が合わないのかしら、って諦めてたくらい」 「移植と言いますと、どちらから?」  軽井沢です、と雛子は言い、木もれ日の下で額に浮いた汗を拭った。「別荘に植えてあったものをこちらに」 「大切になさってた木なんですね」  雛子は軽くうなずき、思い出が……と言いかけて口をとざした。口紅の跡のない唇に、平凡な主婦に似つかわしくない謎めいた微笑が浮かんだが、やがてそれもすぐに消えた。「よかったら、おひとついかがですか」